新しいパネルディスカッションのかたち

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パネルディスカッションというと、基調講演があって、それぞれのパネリストが意見をパワーポイントのスライドを見せて表明する。

僕が展開するパネルディスカッションはそうはしないです。

時間がもったいない。

テーマに即して映像で資料を作ります。
映像は口で説明するよりも短い時間でよりリアルに伝えることができます。
説明はいりません。
みてもらえばわかります。
だからパネルディスカッションは実質的な討論になります。

今回はモデレーターの見城美枝子さんが、岩手県立大学の中村学長(当時)、東海大学山田学長、名古屋学院大学の木船学長、法政大学の田中総長に、映像資料をベースに、見城さんが問いかけます。慶應の片山がテーマごとにまとめのコメントをします。
ですから、議論のテーマがしっかりとクローズドします。
パネルディスカッションをご覧になっている人に、テーマが明確に示して、よりわかりやすい意見を映像で示して、このテーマの議論の結論をまとめて聞いてもらいますから、満足いただけるのだと思います。

僕も仕事柄たくさんのパネルディスカッションをみていますが、観客を満足させるものはほとんどないです。
多くは時間切れで、見ている側は欲求不満になります。

しかし、なぜパネルディスカッションを開くのかを考えれば、これまでのものは自己満足でしかなく、伝えるべきテーマの課題を議論して訴求しなくてはなりません。

それをいかに実現するかを考えた結果が、このスタイルです。

本日14時から、NHKEテレビ「TVシンポジウム」で、その様子をみていただくことができます。

映像が持つ力は大きいです。
大学の授業もいずれ大きく変わるのではないでしょうか。

どう時代を紡いでいくか

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僕はいつも安倍総理に批判的だけど、彼が選出される何日か前に、偶然、昭恵夫人とご一緒したときのことを思い出すと、何とも言えない感じになる。

そのときに彼女が「総理になってほしくない」と、多くは語らなかったものの切実な思いがしみ出てくる感じで話されたのがとても印象的だった。

総理の重さを肌身で感じて知っているからだろう。

その昔は「総理になる準備ができた」とか「まだまだ資格がない」とか言われたが、いま安倍総理の代わりを務めるべく人は現れるのだろうか。

彼やほかの大臣の、最近の国会答弁を見ていても、もう少しなんとかならないかと思うけど、政治の世界も人材不足なのだろうか。

大学も人材不足で、学長のなり手がいない・・・

科学技術の世界もかぁ・・・
山中さんはいるけれど・・・
ああ、僕らの世代がいまひとつなのか・・・

でも、団塊の尻ぬぐいをどこでもやっているみたいだし・・・


いまは経済も右肩上がりではないし、将来を担う若者の数も減っている。

未だに、経済の右肩上がりや大量の人員を前提にした発想が蔓延っている。

屍累々の上に成り立つ「甲子園モデル」なんて、今は昔だ。

どうなるんだろうか・・・

僕らは次の世代に何を引き継げるのだろうか・・・

見たくないものを見ながらも

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最近はいろいろなものが見えてしまう。

知りたくもないのに教えてくれることもある。

それらがすべて僕の中の妄想であればいいのだが、そうでもなさそうだ。

 

達観する力なるものを求められつつあるのかもしれない。 諦めの念とともに。

 

教育なんていまのことを考えていてはいけないものだと昔から思っている。

20年、30年先のことを考えるべきものであると。

そろそろ自分が生きない時代を生きる若者たちのことを考えないといけない年齢になりつつある。 死はいつ訪れるかわからない。

 

三宅なほみさんはガンを患い、自分の時間は有限であることを僕らが想像もできない程に感じていたことだろう。

 

人は有期限の生き物である。

生きていることがすべてだ。

 

ただなんとも言えない、この閉塞感、諦念。

 

予算に補助金に踊らされる人々。

 

団塊がまき散らしたものを享受しつつ、大掃除をしなければならない我が世代。

 

そんなことを10歳上の団塊に話した、昼下がりのタクシー。

 

いつ破綻するかもしれぬ政策を見つつ、いまこれを貫徹しなければ我が孫世代は大変なことになるという想像力を働かせて、自分になにができるかを考える日々。
我が力はあまりにも微力である。

「いいね!」でわかる人柄

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毎日、たくさんフェイスブックに投稿しているといろいろと面白いことがわかる。

 

「いいね!」の押し方にも人柄が出る。

ああ、これに「いいね!」するんだとわかったり、あっ、この時間だから見ているんだねとかもあったりする。

 

 

記事に対する好みは本当に人それぞれで面白い。

 

えっ、これに「いいね!」を押さないの?と思っていると2日後に「いいね!」が押されることもあれば、意外なところで「いいね!」がきてどうしてだろうと思うときもあり、そのときはこちらは探偵になって、「いいね!」とご本人の関係を徹底的に考えることもある。

 

僕はきっとみなさんとは違う楽しみ方を手に入れているのだろう

もう6月か・・・

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原稿を書けないときは本当に苦しい。

なぜ書けないのかわからない。

頭の中では書けたはずの原稿が、最近は、ぼわぁと消えてしまう。 老いたかなwww

でも、書けたと思っていた頭の中の原稿は実は幻聴のようなものだったりするのかもしれない。 自分の能力の低さにうちひしがれる。

 

「能力は、知識・技能という技能と、思考力や表現力などの非技能で形成される。大学入試で測るべき適性は、この能力と、意欲や主体性といった非能力とで構成される。そしてその配分は能力は3割、非能力は7割。能力のうちの技能は全体の1割に過ぎず、非技能も2割である。だから意欲や主体性を評価しないといけないんだ」と元中教審メンバーは話している。

この話からすれば、僕の問題は能力よりも非能力に問題があるのかもしれない。 能力も非能力も充実していたら、もっといろいろなことができるだろう。 だけど、僕が持つ能力も非能力も限界がある。

これを越えようなんてことはもうこの歳になっては現実的ではない。 そこはしっかりと見据えなければならないのだ。 ただ擬似的なものを含めて経験を積んだり他人からの示唆を受けたりしてどうにかこうにか誤魔化して行くことはできるのではないかと思う。 そこは我ながら「手練れ」たものだと思っている。 まぁハリボテだからバレないようにせねばならないけどwww。

 

こうして、原稿と呼ばれるもの以外の文章は止めどもなく書けるのだが、さて、はて・・・

 

みなさん、明日からなんと6月です。 暑くて蒸した日がやってきます。 それでもめげずに生きていきましょう。 きっとなにかいいことがあります。

 

「希望はあるか」と書いたら「夢はあるか」と長尾彰くんに示唆された。 夢があれば希望も生まれる。希望があれば絶望はしない。 そんな日々をまた一日一日送っていきたいと思います。

 

こういうことを書くのは凄く簡単なんだけど、こう書くことで、少し空気を換えたいと考えました。 いつもはこんなことは書きません。 原稿を書くことが辛いで終わります。

でも、僕の周りに何人か、希望が見えなくなってしまった人がいます。

そうした人には、この文章は嫌な感じかもしれません。

僕も気持ちが淀んでいるときはこんな文章は丸めて捨てたいと思います。 しかし、世の中には、あなたのことを気にかけている人がたくさんいるんだということをいまいちど感じてほしいと思います。

能力があるとかないとか、できるとかできないとか。 いろいろと悩みはあるでしょう。

でも地球は回っています。

最近は地球もご機嫌斜めですが、それでも回っています。

抗うことができないことはあります。

悩んでいても仕方ないこともあります。

 

できることは足を前に一歩踏み出すことです。

僕は最近身体の調子が悪くて歩くのが嫌になるときがあります。

でも足を一歩動かして腕を振ってみると歩き出せるんです。 足を前に出すだけでは歩みは止まります。

両腕を振ってみてください。

右足を出した後に左足も前に出ます。

そうして歩くことができるのです。

実はこのことは発達が遅れて足が遅かった上の息子のために買った本に書いてありました。

まず足を振り出せと。

膝から下を前に蹴り上げるように。

そうなんです。

嫌なことを蹴り出してしまえばいいんです。

そうしたら歩むことも走ることもできるでしょう。

 

ああ、なんてことだ。 こういったことならポールマッカートニーが2曲歌う間に書けてしまう。

 

明日から、みなさんに、幸多かれ。