腕時計と手帳
この本を読み終えた。
人生を面白くする 本物の教養 (幻冬舎新書)
出口治明学長は手帳も腕時計も持ち歩かないそうだ。
僕もAppleWatch を手にするまで長い間腕時計はしなかった。僕も腕時計を持つことを敢えてやめたのだ。その時の開放感は忘れられない。だからいまAppleWatch を身につけていてもほとんど時間を気にしない。気にしない方が幸せなのだ。ときたま分刻みの予定になるが、それでも体内時計を信じることが多い。だいたいうまくいく。
手帳も若い頃は持たなかった。持たなくても覚えていたから。
最近はダメですね。
覚えきれない。
でもいまはほとんどがクラウド。
手帳よりもノート。
そのノートもiPad に置き換わった。
それでもスケジュールは、夜寝る前に確認して朝起きたときには忘れているのでもう一度確認する程度。
できる限り気にしないようにしています。
腕時計をつけなくなったときの開放感は忘れられないし、そのおかげでいまは比較的のんびりと暮らしています。
マネジャーとプレイヤー
マネジャーはプレイヤーにはなれない、なってはいけない。
マネジャーは常に誰がプレイヤーかを忘れてはいけない。マネジャーは常にプレイヤーが心地よくプレイすることを支える存在である。
だから『学び合い』ではプレイヤーは生徒たちで、教員はマネジャー。
例えば「教職協働」と最近よく言われるがその時のプレイヤーは誰なのか。
職員でも教員でもない。プレイヤーは学生等だ。教職協働は職員がプレイヤーになることではない。教員が職員とともにマネジャーになるだけのことだ。
「小さな学校」
http://www.meti.go.jp/committee/kenkyukai/mirainokyositu/pdf/002_06_00.pdf
「大きな国家」「小さな国家」の議論があるように、「大きな学校」「小さな学校」の議論があってもいい。
いま、学校の機能はドンドンと膨らんでいる。社会や家庭の学校依存は強まるばかりだ。
その一方で、教員の働き方改革を求められている。EdTech が導入されて、学び方が変わったときに教員の役割は変わるはずだ。
これまでの学習進度は、教科書をすべて終わらせないといけない教員のためにあったが、学習教材がアダプティブになったときに学習者の学習進度は個別化する。そのときに、学校の授業はどうなるのだろうか。
いまこそ学校の機能を見直すときだ。
学校が持つ機能をとことん小さくしてみる。
そのときに、これまでの「読み書きそろばん」はどのように置き換わるべきなのかを議論しなくてはならない。
従来の「読み書きそろばん」はすべてクラウドで処理されてしまう。クラウドネイティブにおける「読み書きそろばん」はなんなのだろうか。
「小さな学校」を、EdTech が本格的に導入される前に、先回りして、議論したい。