パネルディスカッションを開いて感じること

f:id:OKETA:20150902135212j:plain

 

いまのネット社会において、立場のある人がストレートに本音を出すことはあり得ないことの了解がないと、表層的な新しい情報があるかないかで評価をする傾向があるのではないかと思う。

本音など出るわけがないところから何を感じ取るかが重要で、パネリストはすべてに回答してすべてを聴衆のためにさらけ出す必要などないことを承知するべきである。

限られた時間のなかで、しかもさまざまな利害がある中でのパネルディスカッションは、主催者はすくなからずのことを諦めなければパネルディスカッション自体が成立しなくなる。
ある一方向の立場で展開するのであればなんの問題もないだろうが、そんなデモンストレーションをパネルディスカッションで展開する必要はないだろう。
結論ありき、予定調和のディスカッションほど、つまらないものはない。
必然的に拡散したものになる。
その拡散を抑えることは、上記のようにパネリストの立場を考えれば、なかなか困難なことである。
短時間で結論を見いだすことは、予定調和なり、結論ありきであることが多く、もし、それが実現したとしたら、パネリストが自由に発言できたり柔軟な対応ができる立場であったりするときだろう。
こうした了解を聴衆に求めることはできないが、幾つものパネルディスカッションを見ていると、その折り合いをつけている「際」が見えるようになるはずだ。

まぁほかにもいろいろと思うところはあるが、追々。