見たくないものを見ながらも
最近はいろいろなものが見えてしまう。
知りたくもないのに教えてくれることもある。
それらがすべて僕の中の妄想であればいいのだが、そうでもなさそうだ。
達観する力なるものを求められつつあるのかもしれない。 諦めの念とともに。
教育なんていまのことを考えていてはいけないものだと昔から思っている。
20年、30年先のことを考えるべきものであると。
そろそろ自分が生きない時代を生きる若者たちのことを考えないといけない年齢になりつつある。 死はいつ訪れるかわからない。
三宅なほみさんはガンを患い、自分の時間は有限であることを僕らが想像もできない程に感じていたことだろう。
人は有期限の生き物である。
生きていることがすべてだ。
ただなんとも言えない、この閉塞感、諦念。
予算に補助金に踊らされる人々。
団塊がまき散らしたものを享受しつつ、大掃除をしなければならない我が世代。
そんなことを10歳上の団塊に話した、昼下がりのタクシー。
いつ破綻するかもしれぬ政策を見つつ、いまこれを貫徹しなければ我が孫世代は大変なことになるという想像力を働かせて、自分になにができるかを考える日々。
我が力はあまりにも微力である。